おおむね何もやりたくない

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ISIŞとイスラム教と動物倫理とヴィーガンと規範を内面化することについて

ISISとイスラム教と移民と

 自分がここ10年ほどで最も衝撃を受け、興味を惹かれたニュースはISIS(イスラム国)の出現だったと思う。

 自分や自分の所属する社会が共有している道徳や規範(それは平等主義だったり人権思想だったり民主主義だったり自由主義だったり)とはまったく違う規範を持った集団がいて、暴力をもって自分達の規範に挑戦して来ているということが強烈だった。一時期は自分にしては随分と熱心にニュースやそれに対する反応を追っていたと思う。

 そんな中で、ISISに対する反応の一部に強烈な違和感を感じていた。「彼らは本当のイスラム教徒ではない。キリスト教徒や仏教徒のように我々と共存できる良き隣人だ」みたいな内容だ。まあちょっと考えただけでバカな発言ではある。一般的な日本人の常識レベルの知識でも、キリスト教や仏教の教えの中に今の私たちの価値観から見ると到底容認できないような差別的な主張や表現があることは知っている。それを字義通り受け取って行動する人たちが原理主義者と呼ばれていることも知っている。キリスト教徒や仏教徒の多くは世俗道徳に反する教義を主張していないので、私たちは彼らと問題なく付き合うことができる。それは彼らが”本物”の教徒で原理主義者たちが”偽物”の教徒であるわけではない。解釈が違うのであり、ただ世俗道徳を尊重する教徒が多数派なだけだ。同じようにイスラム教徒だけ本物だの偽物だのと言うこと自体がナンセンスである。もちろん世俗的なイスラム教徒自身がISISと一緒にされないための自己防衛のため主張した側面はあるだろうし、それは理解できるのだけど。*1

とはいえ、じゃあ”一般的”で”多数派”なイスラム教徒はどんな規範を持っているのだろう。キリスト教徒や仏教徒のように、教義よりも世俗道徳を重視しているのか、それとも原理主義により近く、宗教的な規範を維持しているのか、そんな疑問を強く思った。道路上で礼拝する大量のイスラム教徒の写真なんかを見かける限り、彼らが西欧的な世俗道徳に取り込まれているようにはとても見えなかった。

 池内恵中田考の著作を読んでみてわかったのは、多くのイスラム教徒たちはISISほど極端ではないにせよ宗教的な規範を強く維持していて、自由主義や平等主義や人権思想に反する考え方を持っているということだ。世俗道徳に骨抜きにされた宗教とは比べ物にならないほど、イスラム教の教えはイスラム世界に対して強い影響力を持っている。(もちろん世俗道徳に親和的なムスリムが多数いることは否定しない)自分はイスラム社会の専門家でもないし、彼らの発言を鵜呑みにしてると言われればそれまでなのだけど、立場が大きく異なる2人が揃って同じ主張をしていることや、現実に起こっている移民問題などを見ていても説得力があるように感じている。*2

規範の大きく違う人間同士が共存することは難しく、様々な問題を生む。移民を受け入れたEU諸国は多様性のもとにイスラム教徒の価値観を尊重し、それは自由や平等を尊重する規範意識をもつ国民に大きな反感を植え付ける。とはいっても共存できない価値観が衝突したら取れる選択肢は同化と排除以外にないわけで。もちろん多くの人は好んで排除なんかしたくないので、彼らが同化することを期待する。自分もそうやって移民の人たちが我々の世俗道徳に同化することを期待していたわけだけど、現実はそんなことは全くなくて未だに移民と原住民の対立はニュースになり続けている。

 自分は強い信仰と、内面化された規範を近いものだと考えている。私たちは合理的な場面ですら嘘をつくことに罪悪感を覚えるし、暴走したトロッコを止めて5人の乗客を救うために1人の太った人間を犠牲にすることを直感的に間違っていると考える。例えば自分は、敬語なんてなくなってしまえば良いと考えているにもかかわらず、見ず知らずの相手に敬語を使われないと瞬間的に不快感を感じてしまう。一度内面化された規範意識は私たちを強固にしばり、それを用いることが非合理的な場面ですらその規範に従ってしまう。

同じように強い信仰は、それに対して後天的にどれほど疑義を抱こうと、その信仰がどれだけ自分に不利益になろうと、簡単に振り切れないものであるのだろうと考えている。内面化された規範に歯向かうと不愉快なように、信仰に背くと不愉快になるんだろう。そして人間は直感的な感情に主導権を握られていて、理性はその奴隷として動いてしまう。*3

どれだけ多様性を尊重したとしても、自由や平等を否定する価値観を私たちの世界に持ち込むことは許容できないわけで、信仰であり内面化された規範を説得して変更させるしかないわけだとは思うのだけど、それはとんでもなく難しくて遅々とした作業なんだろう。そしてその実態は身も蓋もないパワーゲームになるしかないと思っていて、自由や平等を尊重することで幸福になるように仕向けて、世俗倫理に反する宗教的な教えに従うことで不快になる社会を作っていくことになるのだろう。あまりにも身もふたもなさすぎて多様性ってなんだっけみたいな絶望的な気持ちになるのだけど、とにもかくにもそれ以外の解決はないんだろうなと考えている。

 

動物倫理とヴィーガンと肉を食べるのをやめられないだろうということ

 動物倫理とは動物の権利についての倫理である。ざっくり説明すると、動物(あるいは苦痛を感じる能力を持つ存在)は人間と同様の配慮を受けるべきである。他の存在と比較して人間を特別扱いし、特権的な扱いを行う根拠はなく、それは種差別的な発想であって、功利主義に基づき是正されるべきである、という考えから生まれた倫理だ。ピーター・シンガーが著書で主張して広まった。

自分はシンガーの書籍すらちゃんと読んだことがなくて、それを紹介するサイト経由でこの動物倫理に触れている初学者未満の人間なので詳細は割愛します。というかその能力はないです。ちゃんと知りたい人は以下のサイトを見るといいと思います。(何よりシンガーの著書を読むのが一番いいのだろうけど俺もまだ読んでないので・・・・・・)

pyrabital.hatenablog.com

davitrice.hatenadiary.jp

 いろいろ考えてみた結論として、シンガーらが主張している動物の権利についての考え方は、自分にとって非常に説得力がある。シンガーらが主張するように、肉食をやめてヴィーガンとして生きることがより倫理的であると考えるし、種差別は是正されるべきであると考えている。もちろん動物倫理的な思考を実社会に落とし込もうとすると色々と考えなくちゃいけないだろうし、弊害もあるだろう。例えば経済的に恵まれている人間のほうがヴィーガニズムの実践は容易だろうし、それは裕福であること≒倫理的みたいな風潮を助長するのかもしれない。でも理念には賛同しているわけだし、問題があることはベターを目指さない理由にならない。やろうと思えば俺はヴィーガニズムを実践して肉を食べるのをやめることができるだろうし、どう考えてもそのほうが倫理的であると考えている。

 なのにそれなのに、俺は全く持って肉食をやめられる気がしない。なんでだろうとずっと考えていたのだけど、それは俺が「動物の権利」という規範を全くもって内面化できていないからなのだろう。理屈でどれだけ肉食を悪と考えたとしても、肉食に付随する罪悪感と肉食への欲求を天秤にかけると後者が圧倒的に勝ってしまう。そのうえ、自分が好意を抱いている人たちの多くは肉食をするし、その人たちは「あなたたちは肉食をする差別主義者だ」と言われたら不快に思うだろう。もちろん自分は好意を抱いている人たちに嫌われたくはない。端的にいって、肉食をやめることによって自分が幸せになれない。

もちろんこれは直近の話であって、将来的に変わってくるのだろうとは思う。代用肉や動物倫理的に問題のない培養肉の味や価格が現在の動物肉に近づくにつれて、これまで行われてきた肉食は非倫理的なものとして一般に非難されるようになると思っている。そうなれば自分も肉食をする理由がなくなって肉食をやめるのだろう。一度理屈として納得できた倫理は徐々にではあるけども内面化されていくという経験則があるので、もしかしたらテクノロジーの進歩を待たずとも10年、20年先には肉食をやめているのかもしれない。なんにせよ、時間がたてば自分の規範と行動が伴うのだろうと楽観視している。

でもこの考え方って経済合理性ゆえに奴隷制を支持するのと大差ない思考様式だよなーと思うのだけれども、そこまで考えても肉食をやめようと考えられないのがすごいなというか、規範化されてない倫理観のどうしようもない弱さみたいなのを考えてしまう。

 

 

ということで規範を内面化しないとどうにもなんなくてモヤモヤするよねという話を引き延ばすとこうなりました。でも自由意志だのなんだのを強烈に内面化している自分にとって他人の規範をどうこうするとかそういう話自体を強烈に忌避する気持ちもあり、人間はままならないなということで雑にまとめます。考えがまとまっていないしまとまる気がしない。

 

 

*1:それはそれとして、リベラルを名乗る知識人みたいな人たちの多くがこれを言ってたのには失望した。自分に都合の良い思想を”本物”ってことにして反する思想を”偽物”扱いって多様性について全然まじめに考えてないじゃん

*2:池内氏は世俗道徳を尊重する立場から世俗道徳に反するイスラム世界に対して批判的であり、中田氏は彼自身がイスラム教徒であって世俗道徳に対してイスラム教の立場から批判を行っている

*3:このあたりの考えはジョナサン・ハイトの象と象使いの話からです