おおむね何もやりたくない

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これからの世界をより良いものにするため、私たちはご飯に箸を突き立てなければならない

 実家では箸置きというものを使う習慣がなかった。確か4,5歳くらいの時だったと思うのだけれども、夕食の時間に箸の置き場所に困った自分は、茶碗に盛られたご飯に箸を突き立てた。ごはんの粘性は相当なもので箸はぴたりと静止してくれた。これならテーブルを汚すこともない、何て自分は冴えているんだと当時思ってたかは記憶にないが、それを見た母親は「箸を刺したご飯は死者への食事という意味を持つのでやめるべきだ」と言って俺のことを注意した。その言葉に強い反感を抱いて、「母さんは死者が食事をすると信じているのか」「死者への食事という意味を持つからといって、自分がそれをやめなければいけない理由はあるのか」といったような反論、というか質問を投げかけたように記憶している。それに対しての母の回答は「私は信じていないが信じている人はたくさんいる。そういった人が見ると不快になる」「宗教的な意図に関係なくとも、単純にみっともない」といった内容だった。幼少期の自分は親にとても従順であったため、釈然としないながらも引き下がった。

 年を重ねるにつれて「宗教的な儀礼を除いて箸をご飯に突き立てるべきでない」という規範は自分自身にも深く根付いていった。思春期に差し掛かかるころには「日常の中でご飯に箸が突き立てられている光景」を見て直感的に不快感を抱く程度には。

 さらに長じて倫理とか規範とかに興味を抱き始めてから、幼少期のこの出来事に対して強い反発を覚えた。幼少期の自分に対して母親が示したルールは、要するに以下2つのような意味合いとなると考える。

 

「私は信じていないが信じている人はたくさんいる。そういった人が見ると不快になる」より

①自分が尊重していなくとも、他社が尊重している信仰や規範(平時にご飯に箸を突き立てるべきでない)は、自分の便益(机を汚さない)を害しても配慮すべきである

「宗教的な意図に関係なくとも、単純にみっともない」

→箸を突き立てられたご飯に対して「みっともない」と感じるのは明らかに生得的ではないと考える。実際のところ後天的に植え付けられた規範からの逸脱に対して不快になっていると考えると、*1

②すでに共有されている規範・マナーから逸脱すると人は不快に思うため、規範・マナーから逸脱すべきでない

 

ちょっと露悪的に書きすぎたきらいはあるけれど、この2つのルールって本当に正しいか。

 

 

①「自分が尊重していなくとも、他社が尊重している信仰や規範は、自分の便益を害しても配慮すべきである」について

 当たり前であるが、個々人によって尊重している信仰や規範は違う。ただ、共通してる部分もかなり多く、例えば現代日本人の多くは自由や平等だったり人権思想に基づく価値観(以下、世俗倫理と表記)について、強く尊重すべきものであると考えている。信仰していると言い換えてもよい。一方で特定宗教の人格神みたいなものは信じていないし、その教義の基づく規範(以下、宗教倫理と表記)に価値を見出さない。見出さないは言い過ぎにしても、少なくとも自由や平等などの世俗倫理がより優越すると考えている。自分は平均よりかなりラディカルだと思うけれど、同様に世俗倫理を支持し、宗教倫理より優越すると考える立場にある。

 具体的な例を考えてみる。例えば原理主義的なキリスト教徒が「同性愛者は倫理的に悪であるため社会から排除すべきである」と主張しても自分はそれを尊重しないしその思想に基づく実力行使を許容しない。なぜなら「同性愛者は倫理的に悪であるとする聖書の記載」に自分は価値を見出さない。「原理主義的なキリスト教徒が同性愛に対して抱く不快感情」については価値を見出すが、「同性愛者の幸福追求権や自由権」がそれに優越すると考える。なぜなら自分は世俗道徳を尊重し支持しているからである。宗教倫理と世俗倫理が背反するときには世俗倫理が優越されるべきで、それは世論だったり、それに実行力を与える法律や暴力装置によって施行されるべきと考える。*2

 ここまでの整理については大多数の人に同意してもらえると思う。「宗教規範」と「世俗規範」が対立して共存できない問題については、他社の尊重する「宗教規範」を踏みにじってでも自分が尊重する「世俗規範」の基づいて社会が運営されるべきと考える。どれだけ他者の価値観を尊重するとは言っても、共存できないものはある。そうなったら、その社会で尊重される規範は身も蓋もないパワーゲーム*3で決定されるしかない。これについてはISISの騒ぎで個人的に痛感したのだけれど、実際問題として世俗倫理に反する宗教倫理を現代で志向しようとすると暴力に頼るほかないし、それに対するカウンターだって経済的・暴力的なパワーゲームで押しつぶすしかない。人権思想よりコーランの字義通りの解釈を尊重している相手に「お前は人権思想に反している!」と言っても対立者に対してはまるで効力がない。*4

 さて、話を戻してこの理屈が「ご飯に箸を突き立てること」にどのように適用されるかを考える。ここで対立するのは「ご飯に箸を突きたてることで便益を得る」自分の自由権・幸福追求権と、「ご飯に箸を突き立てるべきでない」という宗教倫理である。これは共存し得ないので、世俗倫理を尊重する立場からすると「ご飯に箸を突きたてることで便益を得る」ことが優越すべきであると考える。不快になる人間に配慮して箸をご飯に突き立てないことは賞賛すべきかもしれないが、配慮をしないことについて非難されるいわれはないと考える。私はシャルリーを引き合いに出してもいいけれど、他者の規範の尊重は、私の尊重する規範を害さない範囲でないともちろん認められない。人権思想や表現の自由は自分にとって宗教倫理より優越する。宗教倫理を害す表現に対しての批判、「ムハンマドの顔を書くべきでないし、揶揄すべきでない」という主張は許容できても、ムハンマドの顔を書き揶揄することは制限すべきでないし、それに対する実力行使は許容できない。なぜなら自分は「ムハンマドの表象を書くべきでない」という宗教倫理より表現の自由という世俗倫理をより尊重する立場にあるからである。

 まあ、そもそもこの「ご飯に箸を突き立てる」ことに対して特別な意味合いを見出してる教義って明確にはないみたいで、「仏教・神道の教えっぽいとみんなが認知してる慣習」以上のものでは無いっぽいので、宗教倫理とするよりも単純なマナーの問題と考えたほうが筋は良いと思ってます。ということで次の話につながります。

 

②「すでに共有されている規範・マナーから逸脱すると人は不快に思うため、既存の規範・マナーから逸脱すべきでない」について

 これを言い換えると

①マナーを破ると人は不快に思う。

②人を不快にする行為は好ましくない

③上記より、マナーを破る行為は人を不快にするため好ましくない

いやー完璧な3段論法が完成してしまった。ただよく考えると「マナーはそれがマナーであるから守るべきである」と言っているのと何ら変わりない発言である。そしてこの「マナーはそれがマナーであるから守るべきである」という考えについて自分はそれはそれはもう憎悪を抱いている。

 まず、ここでいう「マナー」という言葉について自分は「緩い規範」くらいに定義している。例えば「人を殺すべきでない」みたいな基本的に絶対に逸脱すべきでないし、逸脱したら重大なペナルティと非難が避けられない「重い規範」とは対照的に、「逸脱するのはなるべくやめたほうが良い」くらいの「緩い規範」=マナーということで話を進める。

 何かのマナーに価値があるとすると、そのマナーを守ることによってメリットがある場合であると考える。なぜならマナーとは往々にして「○○をすべきである」「○○をすべきでない」とい行動の強制を伴う規範であり、選択肢を狭めるものであるからである。基本的に選択肢は多いほうがいいと自分は考える。

さて、例えば「電車の乗り降りは降りる人を優先すべき」というマナー。このマナーが広く共有されていることにより、電車の乗り降りをスムーズに行うできる。確かにこのマナーを守ることによってメリットが存在するため、「電車の乗り降りは降りる人を優先すべき」というマナーには存在価値があるだろう。

ひるがえって「ご飯に箸を突き立ててはいけない」というマナーに価値があるだろうか。真っ先に思いつくのが「ご飯に箸を突き立てている光景を見ることによる不快感」を回避できるというメリットだ。たださらに思考をすすめてなぜ不快に思うのか?を考えると「ご飯に箸を突き立てるのがマナー違反であるから」に行きつくだろう。「ご飯に箸を突き立てること」に対して特別な意味を見出しているのは日本だけのようだし、ご飯に箸を突き刺して悦に浸っていた幼少期の自分を例にとってみても、この不快感は生得的なものとは思えない。*5多くの人は後天的に「ご飯に箸を突き立てることはマナー違反である」と学習し、そのマナーが逸脱されたことに不快感を抱いていると考えられる。つまり、「ご飯に箸を突き立ててはいけない」からこそそれに不快感を抱く人がいるのであり、そもそもこんなマナーが存在しなければ多くの人は箸にご飯を突き立てられている光景をみてもおそらく何とも思わない。

マナーが増えるということはもちろんマナー違反が増えるということでもある。つまり、マナーが増えるとマナー違反による不快を感じる機会が増えるとも言える。これは本当に声を大にして言いたいことで、「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーは不快を感じる機会を増やしているだけである。不快を感じる機会は減らしたほうがもちろん良いので、メリットのないマナーなんて無いほうがいい。ご飯に箸を突き立てて机を汚さないメリットを自由に享受できる社会のほうが絶対にいい。自分がマナー業界を蛇蝎のごとく嫌っているのはこの辺が理由で、メリットのないマナーを創作して稼いでるあいつらマジで不幸の商人だよ・・・・・と思っている。

 と、ここまで書いたけれども、実際のところ「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーにもメリットはある。マナーに合理的な意味があろうがなかろうが、「その場において支配的な規範=マナーに従順でない」人間、長いものに巻かれない・巻かれることのできない人間を排除する上では非常に有効に機能する。良く言えば自立した人間であり、悪く言えば協調性のない人間だ。こういう用途で使うならむしろ合理的なメリットなんて存在しないマナーの方が有用かもしれない。とはいえ、自分の信仰としてこういった排除のロジックは気に食わないのでやっぱり「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーなんて無いほうが良いと思う。マナー業界はいち早く滅びてほしい。

 ここまで読んでくれた方なら、我々はご飯に箸を突き立てるべきであると十分に理解していただけたと思う。実際問題として「平時にご飯に箸を立ててはいけない」というマナーは多くの日本人に強烈に内面化されており、箸が突き刺されたご飯を見ると理屈に関わらず一定の不快感を生じてしまう。これは自分だってそうである。ご飯に箸を突き立てる人は、間違いなく突き立てなかった時より嫌われる。それでも、嫌われるから、すでに定着してるからなんて理由で有害なマナーを継承していいのか。それがなんであり、どのような影響を与えるかについて何の疑問も抱かず、ただ「私はマナーを守っているから道徳的である」と悦に浸っているだけでよいのか。それは将来の不幸を増やしているだけじゃないか、そんなものに迎合していいのか。他人に自我を預けていいのか、自分を誇れるのか。

「ご飯に箸を突き立てるなんてマナー違反だ」という前に少し考えてほしい。なぜ?と聞かれたときに十分な説明ができるだろうか。誇りをもった説明ができるだろうか。実際、子供にそれを言わないのは難しいだろう。ご飯に箸を突き立てる子供は間違いなく悪意にさらされるし、それをはねのけろというのはあまりにも酷だ。でも、それがただの処世術だと伝えることはできるはずだ。幼児には無理でも、中学生、高校生ともなればこの理屈は理解できる人が多いはずだ。せめて、突き立てられたご飯を許容することはできるはずだ。社会は時に非合理で非倫理的になるが、あなた自身までそうなる必要はない。非道を止められなくとも、一緒になって非道をやる理由はないはずだ。ベストを選択できないことはベターを選択しない理由にはならないはずだ。

 将来のことを考えてほしい。より良い世界のことを考えてほしい。私たちはご飯に刺さった箸を見たら不快になる。箸置きがなければ直接箸を置くしかないし、机の上はご飯粒でぐちゃぐちゃだ。まかり間違ってもご飯に箸を突き刺さないように気を付ける食卓はピリピリして緊張感に溢れている。それでも私たちがここで勇気を出してご飯に箸を突き立てれば、他人から嫌われることを厭わず「そんなマナーは無いほうが良い」と言い続ければ、そんな人が増えていけば、次の世代ではどうだろうか。「ご飯に箸を突き立てるべきでない」なんてマナーの存在を知らない世代の食卓はどんな光景だろうか。

彼ら、彼女らは箸置きがなければご飯に箸を突き立てることができる。箸置きが無くったって机は清潔に保たれるし、それを見て不快に思う人なんかいない。ご飯に箸が突き刺さっていたからそれが何だというのだ?机にへばりついた米粒なんて誰だって片付けたくはないではないか。ご飯に箸が突き立つ、そんな清潔でリラックスした食卓は朗らかな幸福に包まれている。それはささやかながら、今よりももっと良い世界であるはずだ。

 これからの世界がそんな素晴らしいものであってほしいなら、これからの世界をより良いものにするため、私たちはご飯に箸を突き立てなければならない。

 

 

 

*1:この解釈は意訳しすぎだと言われると本当にそうだと思いますごめんなさい

*2:これは宗教倫理の優越を主張することを制限すべきでないという意味ではない。思想・信条の自由は最大限尊重されるべきであり、言論によるパワーゲームは続けられるべきだと考える。

*3:必ずしも直接的な暴力ではない

*4:間接的な効力は置いといて

*5:このあたり、まじめな研究があったらめちゃくちゃ見てみたいので情報大募集です