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「〈効果的な利他主義〉宣言! ――慈善活動への科学的アプローチ」が面白かった話と、それにまつわる個人的なこと

 ウィリアム・マッカスキル著の「〈効果的な利他主義〉宣言! ――慈善活動への科学的アプローチ」がめちゃめちゃ面白かったので簡単な紹介を。あと最近の自分の行動について色々考えさせられたのでそれも。 

 

 

 本著は「効果的な利他主義」という考え方についての紹介本である。ものすごくざっくり説明すると、「世界をよりよくしようと慈善活動なんかをやるなら、より大きい効果のある活動をしよう。そのためには証拠を元にした合理的な活動が必要である」というもの。基本的には功利主義的な考え方がベースだと思う。以下のサイトに概要が乗ってたので詳しくはそっちを見るといいかも。

eajapan.org

 

 

 本著の冒頭では、効果的で”ない”利他主義の例として、「プレイポンプ」が紹介されている。

 プレイポンプとはメリーゴーランド型の水くみポンプで、子供たちがプレイポンプをぐるぐる回して遊ぶことで水がくみ上げられるという発明である。それまで重労働だった水くみからアフリカの女性たちを解放し、そのうえ子供たちに遊具を提供できる、といった一挙両得の代物だ。この発明は2000年代の当時、国際的に高い評価を受けて多額の融資を得ることに成功した。

 ところが現実に配備されたプレイポンプは、効果的どころかむしろ有害とさえ言える結果をもたらした。通常の遊具と違って回すのに一定の力を必要とし続けるプレイポンプは遊具としてほとんど使われず、ほとんどの場合は従来通り女性たちがメリーゴーランドを回す羽目になった。その上プレイポンプのくみ上げ効率は元々使用されていた水くみポンプと比べて悪く、結果的に現地民の負担を増やしただけという惨憺たる有様であった。

 

 一方で、効果的な利他主義の例として、マイケル・クレマーによるケニアの子供たちへの教育支援活動が紹介されている。彼は現地の14校を7校の2つのグループに分けて、どのような支援が就学率やテストスコアの改善につながるかのランダム化比較試験を実施した。ある支援を7校に実施して、一方の7校を普段のままにしておけばどんな支援が効果的かわかるというわけである。その結果は驚くべきもので、「教科書の支給」や「教員の増加」などの当初有効だろうと想定されていた試みにはほとんど効果がなく、「特許切れの薬を用いた腸内寄生虫の駆虫」が圧倒的に高いコストパフォーマンスを誇る方法であったというものだった。駆虫プログラムは学校への出席率を上げるだけでなく、子供たちへの健康面・経済面にも多大なメリットをもたらしたことが追跡調査で判明している。

 

 プレイポンプは効果的どころか有害な影響をもたらしてしまったが、プレイポンプの発明者や支援者たちに悪意があったわけではない。善意の利他的な活動も場当たり的にやっては有害になりうるわけで、効果的な活動をしたいのであればクレマー達のような科学的なアプローチによる「効果的な利他主義」を行うべきだ、というのが作者の主張である。

 

 この本は2パート構成となっており「効果的な利他主義にとって重要な5つの疑問」として効果的利他主義の考え方を解説するパートⅠ、「効果的な利他主義を実践する」として効果的利他主義を実践する上で具体的に何をすればいいのか?について記載するパート2に分かれている。 

 

 パートⅠでは利他行動を定量的に評価するための指標や手法について記載されている。個人的に面白かったのが以下の内容。

・行動の評価は「この行動を取らなければどうなったか」との比較によってきまる

・成功の確率が低いが成功時の見返りが大きい行動もあり、定量的に評価するにはその行動の「期待値」について考える必要がある

 特に後者についてはよくネット上で話題になってる「選挙に行く意味はあるのか?」という投票行動の効果について考察していて面白かった。本書では個人の投票が選挙に影響を与える可能性はものすごく低いが、影響を与えることができた際のリターンは大きいため時間単位の利益に換算すると中々効果的かもしれない(数千ドルの価値があるかもしれない)という議論が展開されている。ただし本書内でも触れられているが、この数値は「どの政党に投票すべきかが完全にわかっている人間の投票である」「優れた政党に投票した際の個人の利益が完全に架空の数値(1000ドル)であり、全体の利益もそれに全人口をかけただけの数値である」などと様々な前提がある上での値であってかなり怪しいのが残念。

特にほとんどの人間が持つ情報量や思考力を考えると「どの政党に投票すべきか」を把握できている人間なんて自分含めてほとんどおらず、多分に党派性や雰囲気に左右された投票をしているだろうと思うのであまり現実的でない議論ではあるなと感じた。

 

 パートⅡでは「具体的にどの慈善団体に寄付するのが効果的か?」「どんな製品を買うべきか?」「どんな職業に就くべきか?」といった具体的な行動について記載されている。個人的に面白かったのが以下の内容。

発展途上国の労働者にとって搾取的であったりエコでない企業の商品をボイコットすることが多くの場合功利的でないということ

・利他的なキャリア形成の話(より利他的な職業に就くか、収入の多い職業について寄付をするかなど)

 特に面白かったのは前者の議論の中の、「温室効果ガスの排出を抑えた製品を買ったり日常で電気製品を節約したりするより、安い製品を買って別の温室効果ガスを削減する活動に寄付したほうが効果的である」といった主張。少額の寄付をするほうがライフスタイルを大幅に変えるより楽だろうというのは間違いないので、現実的な対処方法として興味深かった。

 温室効果ガスについてはヴィーガニズムの主張でよく採用される「肉食は環境負荷が高い」という主張へのカウンターとしても働くので、あくまで動物福祉に着目すべきではという議論も展開されている。ここで作者は「自分自身が肉食を絶つのでなく、動物愛護団体に寄付してヴィーガンを増やすことで自分自身が肉を食べたことを相殺できるのでは?」という疑問を「苦しむ動物が入れ替わるだけであり、浮気をしてそれを相殺するようなものである。だれもが倫理的でないと考えるだろう」と一蹴している。これについてはトロッコ問題などでよく話題になる「5人を救うために1人を犠牲にすることは許されるか?」という問題にも通じるし、功利主義的に自明のこととして簡単に流せる問題なのか?という疑念を持った。例えば1人の人間を殺して臓器提供することで5人の人間の命を救えるという話であれば、「自発的でない形で自分の命が5人のために犠牲になるようなリスクをはらむ社会で我々は過ごしたくないから、現実社会においては功利的でない」というような反論があるかもしれないが、人間以外の動物ではこの理屈はあてはまらないだろうし。

 

 全体として功利主義にある程度親しんでいる人であれば、素直に受け止められるような内容であり、「現実の行動に落とし込む」という観点で非常に役立つ本であるという感想。ただし、例えば「ヴィーガン的なライフスタイルは肉食をするよりも倫理的である」みたいなのが自明のこととして展開されるのは日本だと忌避感を持つ人が多いだろうなとは感じた。とはいえ細かい議論に異議があったとしても、慈善活動に興味がある人は読んで損はしないんじゃないでしょうか。自分もヴィーガンではないけど去年で一番面白かった本です。

 

 

 

 ここからは個人的な話。

 ちょうどこの本を読む前に日本ユニセフのマンスリーサポートプログラムで寄付を始めていた。それと昔から国境なき医師団への毎月の寄付をしている。実はこの本ではユニセフ(もちろん日本ユニセフではないけれど)にも触れられていて、「ユニセフのような大規模な団体はやってることの範囲が広く評価が難しい。その中ではあまり効果的でないものも含まれているであろうから、そこへの寄付は最も効果的な支援とはいいがたい」といった旨が書かれている。

 これは確かに「効果的な利他主義」的にはそうなるだろうなという結論だ。ただ、自分がはそこまでストイックに慈善活動をしていない。基本的には「自分は善人である」という自己肯定感を担保したいがためにやっている部分が大きく、なるべく慈善活動によって生活負担をかけたくないというのが本音だ。本著でも最も効果的な寄付は「その活動が現在効果的である」「寄付を有効活用する資金の余地がある」必要がある点について述べている。例えば過去に非常に効果的だった「天然痘の根絶活動」に対する支援は根絶が実現された今となっては意味がない。ストイックに効果的な利他主義を実践するなら「その活動への寄付が現在も効果的か?」という継続的な監視が必須であり、それは大変めんどくさいのであまりやりたくない。となると、手広い活動をやっていて実績があるため、「最も効果的ではないがそこそこ効果的な活動」を長期間やってくれるであろう大規模な慈善団体への毎月の寄付は合理的であるかなという自己正当化ロジックを思いついた。あと、一度始めた寄付をやめるのは気が引けるとか、手続きが面倒くさいみたいなのもあるのでとりあえず放置しようと思っている。

 

 活動という意味だと、ここ数年は帰省しなかった年末年始のみ支援団体の主催するホームレスへの炊き出し&夜間パトロールのボランティアに参加している。これについては、前々から自分が参加することによる利益はほとんどないだろうなと感じていた。

 炊き出しについては作業分担を仕切ったり実際に炊事を行ったりするのはスタッフであったり年間を通して継続的に活動しているボランティアである。自分のような年末年始だけ参加するようなボランティアは単純作業(野菜や肉の切りこみなど)をやるわけだが、例年20人いればできるような作業を80人が取り合いながらやっているような状況に感じている。夜間パトロールについてもコアメンバー以外はほとんど「見学をしにいっている」だけの状態である。

 少なくとも炊き出しについては量が多いため一定の頭数が必要であり、余っているぐらいでないと主催側としても不安要素となるだろうし、作業負担の分散という意味では効果があるのだろうとは思う。しかし夜間パトロールについては労働力としてのボランティア参加はほとんど求められていないだろうと感じていた。実際に活動の代表者の方がボランティアに向けて話す内容は、ほとんどが「現状を知って考えてほしい」というものであった。ボランティアに対して労働力としての期待はほとんどなく、啓蒙的な理由がほとんどをしめているのだろう。あるいは後々コアメンバーになってほしい、という期待もあるのかもしれない。

 以上を元に考えると、継続的な活動を続けるバイタリティは完全になく、かつそこそこの回数を参加している自分が単発的なボランティアとして参加する意義はほとんどないだろう。下手をすると新規のボランティアが啓蒙される機会を奪っているだけのようにも思う。とはいえ総合してマイナスにはならんだろ、というのと自己満足はできるだろう、という気持ちで例年参加していた。今年はコロナでボランティア足りないのでは?という懸念があって12/30~31で参加したものの、幸いなことに余るぐらいのボランティアが参加していた。今年については自分の参加はコロナリスクを上げるだけだなとも思ったので、それ以上参加はしていない。

 あとは、この炊き出し&パトロール自体が「効果的な利他主義」からは程遠いものではあるのだろう。そもそも「効果的な利他主義」の理屈で言うと先進国で国内向けにやる支援はほぼすべて「効果的でない」という結論になってしまうのだけど。*1

 コアメンバーの方から「炊き出しに来ている人もほとんどがホームレスでなく近隣のドヤに住む生活保護者であり、浮いた金をギャンブルに使っている。不毛に思うことも正直あるが、わずかなホームレスのためだけを思ってやっている」みたいな話も聞いた。実際炊き出しに来ていた人の顔を近くのボートレース発券場の行列で見たことは何度もあり、説得力を感じた話ではあった。とはいえ、わずかなホームレスへの支援だって好ましい活動ではあるし、「あなたを気にかけているということを伝えたい」という理念は素晴らしいものだと思うので、活動自体は応援している。ホームレス以外の生活困窮者が炊き出しを食べに来て、それで浮いた金を娯楽にあてるのも悪いことだとは思わない。(ギャンブル、となると無条件で肯定はできない気持ちもあるけれど)「最も効果的」でない活動はするべきでない、という考えはそれはそれで有害だろう。

 ちなみにこの年末年始のボランティアに政治家の山本太郎が参加しているのがちょくちょく報じられているのを見かける。実際、毎年どこか1日はほかのボランティアに交じって切り出しなり配食なりを手伝ったり、寄付金を渡したりしている光景を見かけた。自分は氏を政治家としては最悪の部類だと考えており人間的にも嫌っているのだけれども、こういった活動を継続的にやっているのは素直にリスペクトしている。福祉の現場に直接参加しない政治家はダメ、みたいな言説は心底馬鹿にしているけれど、それはそれとして直接参加することは悪いことじゃないだろう。*2あと、自分は本当に山本太郎が嫌いなので、せめて山本太郎より貢献してやろうと考えて風のうわさで聞いた山本太郎の寄付額の数倍を寄付したりしたこともあったので、著名人の慈善活動ってそこそこ効果あるんだろうなーと思ってます。

 

以下参考サイト

 

効果的利他主義への批判記事。中身はまだ読んでない。

www.shigo45.com

本著の読書目メモ。自分はこれを読んで購入した

davitrice.hatenadiary.jp

 

 好意的な書評

honz.jp

 

 ピーター・シンガーが効果的利他主義について語るTED。まだ見てない

www.ted.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:先進国は発展途上国より圧倒的に裕福であるため、例えば同額の寄付をするのであれば発展途上国に寄付したほうが圧倒的に高い効果を得られる

*2:政治家は個人的な活動を行うよりも政治活動によってより大きい貢献ができるとは思うが、それと並列して個人的な小さい貢献をすることを否定する理由にはならないだろう。著名人の場合広告塔的な効果も期待できるわけで