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「発達系女子とモラハラ男──傷つけ合うふたりの処方箋」の感想と、読んでいて抱いたモヤモヤ

 鈴木大介著の「発達系女子とモラハラ男──傷つけ合うふたりの処方箋」を読んだ。別に発達障害の彼女ができたとかそういうわけではなく、単純に鈴木大介ファンだから買った。

 

発達系女子とモラハラ男──傷つけ合うふたりの処方箋
 

 


 この本は前書きで示されている通り、「発達障害特性を持つ女性及び、そうした女性と共に暮らす男性パートナーをターゲットにした1冊」である。そういう意味で自分はターゲットではない。とはいえ、発達障害特性は世間平均よりある気はしている(診断はまず下りないであろうレベルで)のと、そうでなくても発達障害特性を持つ他人との生活におけるライフハック本として一定の普遍性があるようには感じたため、興味深く読めた。

 本著は著者(定型発達者)とその配偶者(発達障害者)を例として、各章ごとに


①ある発達障害特性を持つ配偶者はどんな行動が困難か
発達障害でない著者はそれにどんな不満を抱いていたか(そしてその不満が不当であったか)
③その発達障害特性由来の問題をいかにして解決したか


を解説するという構成を基本的にとっている。まずもって著者の文章は平易で分かりやすく、ところどころユーモラスで読み物として面白い。しかし、それ以上に他のライフハック本と差別化できるポイントは「著者が一時的に発達障害特性をもつ当事者になり、今はそれがかなり改善している」という経歴の持ち主である点である。
著者の鈴木大介氏は数年前に脳梗塞による高次機能障害となっている*1。現在は症状が改善しているものの同一人物の視点から「発達障害特性に対して抱く不満」と「当事者になってみてその不満がいかに不当であったか」を語られるのはやはり説得力がある。

また、特に印象的だったのが「真の公平」とは何かと題して、家事分担について語られている箇所。ここで著者は以下のように記述している。

ようやくたどり着いたのは、妻と僕が家事運営を「平等」に行うことは、ことはなす作業の量や時間を均等にすることでは決してないという理解。そして我が家における公平とは、「脳(認知資源)の消費量で釣り合っている状態」だという気付きだ。

前後の文章も含めて、自分は著者の「結果的な幸福に対するフェアネス」みたいなものを感じた。これは個人的な話になってしまうが、常日頃から無能力な人間に対する苛烈な批判とそれが世間的に肯定されてしまいがちなことに強い不満を抱いている自分にとって、著者のこの姿勢には強い共感とリスペクトを抱いた。
ところどころで定型発達者はその弱者特性を読み取って配慮しなければいけないという規範的なマッチョイズムを感じ、そこに反発するところもあったが、そもそもそのような配慮を行えるようになりたい人間が読むことを想定している文章に対しての批判としては的外れであるだろう。


 と、ここまでが全体的な感想。以降は本著のある部分について自分が抱いたモヤモヤについて。これを語るにあたって、まず著者の鈴木大介に対して自分の抱いている勝手な思い入れを書く。
 冒頭でも書いたが、自分は鈴木大介ファンであり氏の著書に多大な影響を受けている。著書である「最貧困女子」や「家のない少年たち」で描かれた、「最も貧困である恵まれていない人達は、面倒くさい、かわいくない、加害的な人間であることが多い」という主張は確実に自分の人生観を変えた。
犯罪者であったり、怠惰さゆえに生活を破綻させている人、それを助けようとしている人に対してすら攻撃的にふるまう人たちに対して、そこに至るまでの貧困を調査し、それを考慮せず無邪気に自己責任論を投げかけることへの鈴木氏の憤りはそのまま自分にも刺さった。それゆえに、自分は氏をリスペクトしているし、とても感謝している。彼の問題意識を好ましいものとして考えており、ともすれば過大な思い入れを抱いている。

 であるがゆえに、本著8章「発達系女子が働いてくれない」のある部分について耐え難いモヤモヤを感じてしまった。
8章は以下のような構成になっている


①著者が働かない配偶者に対して、公平感がないと不満を抱いていたこと
②著者の配偶者が現代社会で労働することの困難性の考察。そして本当に不満だったのは公平感のなさだけでなく、配偶者がなんの役割も持っていないと感じていたこと。
③著者がジェンダーロールに縛られていたがゆえに、配偶者の果たしていた役割に気づいていなかったこと。それに気づいて不満が解消されたこと

 上記②⇒③への論旨が自分がモヤモヤを抱いたポイントとなる。
ここで筆者は「外で働くという役割を持たない妻は、家事労働をするか育児をするか何らかの役割のもとに生きるべき」という規範を持っていたことを反省する。その理由として、この発想を突き詰めると役割のない、生産性のない人間は存在すべきでないという思想に接続され、それは相模原障害者施設殺傷事件の植松聖の論を正当化に与するものとなる、と語る。そして、配偶者がいることにより「仕事後に独りで食事をせずに済み、気持ちが削られたときにそれを共有してもらい、答えの出ない悩みを抱えた時に今を楽しむ提案をしてもらえた」ことに気づき、「誰かのパートナーが務まる」ということだけで得難い役割を果たしてくれていると結ぶ。

筆者がその配偶者のあり方を肯定できるようになったというのは単純に祝福されることであるとは思う。しかし、それに至った理由として書かれているのは「役割を担っていないと感じていた妻が実は重要な役割を担ってくれていたことに気づいた」である。では、本当に役割をもてない人、他人に対して魅力のある何かを提供できない人はどうなるんだ?というのが自分の抱いたモヤモヤだ。
人は何のメリットも提供できない相手と婚姻しない、ゆえに言及する意味がないというのが正しいかもしれない。正直ここにケチをつけるのは不当な気もしているのだけれど、それでも「何も持たない人たち」の困難さや悲惨さを取材し、彼ら彼女らが不可視化されることに憤ってきた鈴木さんにだけは言及してほしかった。そして、それについて語らないのであれば、なぜ植松に触れたのか。実は配偶者には気づいていない役割があった、では植松の論に対する反論にはなっていない。なら言及すらしないのが誠実なんじゃないのか。

あるいは、それについて語ったところで建設的なことを何も言えなかったからなのかもしれない。「何も持たない人たち」をどうやったら救えるのかがわからないという氏の絶望は過去の著書から伝わってきた。何も言えないなりに植松に触れることによって読者に「何ももたない人」について考えさせようとしたのかもしれない。 それでも、氏はこれまでに「何も持たない人たち」を何とかしようともがいてきた人であるとも思う。たとえば「家のない子供たち」や「ギャングース」で、筆者は”最貧困男子”達の犯罪行為をヒロイックに描いてきた。それは加害者になりがちであるがゆえに、女性以上に同情されにくい最貧困男子に対する世間の目を変えようとする試みでもあったと思う。自分は情動でもって他人を説得しようとすることに対して反発を抱くことが多いが、それでも氏のそれが不誠実だとは思わなかったし、むしろ尊敬すらしていた。そんな氏にだけは真正面からこの問題に触れてほしかった。

 ここまで自分の抱いたモヤモヤについて書いたが、ある問題についていかなる場所でも言及しろという態度は正統とは言えないだろうし、問題の重さを考えるとそこに向き合い続けろと言うのはあまりにも酷なことであるだろう。なによりこの本のメインはライフハックの紹介であって、枝葉となる話題に厳密性を求めるのもどうなの?という気もする。つらつらと書いたは良いものの、自分が著者に対して抱く身勝手な思い入れからの不当な非難に過ぎないのではとも思っている。

 

 

 

--------------------ここから追記(4/4)---------------------------------

ありがたいことに鈴木大介氏から本記事への反応をいただいたので載せておく。

*1:「脳が壊れた」「『脳は回復する―高次脳機能障害からの脱出』」などの関連書籍も出版している