このブログはほとんど更新してないのでそんなにアクセス数も無いんだけど、一定のアクセス数を保ち続けてそこそこ反応のある記事が一つだけある。*1それが以下の記事。
この記事の内容を要約すると、以下のような内容になる。
・「正義の反対はまた別の正義である」って「価値観は人それぞれ」って言葉の言い換えとして使ってる人ばっかりだよね
・価値観は人それぞれって否定する人ほとんどいないし、行ったところで意味を持つことはあまりないよね
・「正義」って言葉の意味を考えると「正義の反対はまた別の正義である」を「価値観は人それぞれ」って言葉の言い換えとして使うの微妙じゃない?
・それはそれとして、何かを引用するだけで正当性が担保されてると考えてるやつがムカつく
それで上記記事に対する反応の大半は、「価値観(善悪)は人それぞれなんだよ!」って私に対して説得してくるような内容であった。別にあの記事では価値観は相対化されうるよって話は一切否定してなくて、それ当たり前すぎて言う意味あるか?ってことを書いてるんだけど、どうやら私が「価値観は相対化できないよ!」って書いていると誤読されているように思う。
数少ない肯定的な反応も「価値観は(善悪)は相対化されないよ!って書いてる記事がありました」みたいな文脈で、結局誤読されている。悲しい。たぶんみんな「正義の反対はまた別の正義である」って言葉に何らかの思い入れがあって、タイトルだけ見て反応している感がある。
まあ整理されてないだらだらとした長文ブログをちゃんと読解してからコメントしろ!ってのも微妙だなというのは感じつつ、それはそれとして一番読まれてる記事がまったく読まれてないのは悲しいので続編記事を書こうぜ!となって書いてるのがこの記事です。ここまで前置きです。
まず冒頭の記事自体で今読むと微妙だなって箇所があるので、少し補足したい。あの記事を書く上で私が「正義」って言葉の意味として想定していたのは、「発話者の想定する普遍的な共通善」*2である。そんな用法は全然一般的じゃないと思うので、ちゃんと書いとくべきだったなと今になって思う。まあでも
なんであれ、議論をする際に言葉の定義でもめるのは不毛なので、何か反論する前に相手がその言葉をどういう意味で使ってるかについて気を付けたほうが良いですね、という感じでまとめにしてしまいます。
という良いことも書いていおり、昔の私は偉い。
あと以下の記述。
価値観は人ぞれぞれ」の言い換えでしかない「正義の反対はまた別の正義である」という主張が意味を持つことはほとんどない。
「正義の反対はまた別の正義である」っていう言い回しはとてもキャッチーで格好良く、だからこそ格言・名言として流布され、引用されるって側面は非常に大きいと思う。そういった意味で「価値観は人それぞれ」を「正義の反対はまた別の正義である」に言い換えることによって生じる意味はあるかもしれない。そしてそれってあまり良くない事じゃないの?というのがこの記事の主旨である。
以前の記事でも書いた通り、大概の人は「正義の反対はまた別の正義である」を「価値観は人それぞれ」の言い換えとしか使っていない。そして、価値観を相対化して見せることは良いのだけれど、結局重要なのは相対化した上でどの価値観を尊重するかじゃないの?というのが私の考えである。結局のところ私・あなたが発話や行動をする際には主体性を帯びてしまうわけで、そこには何らかの価値判断が付随する。その価値判断の内容や是非に踏み込まずに相対化して終わり、では大した意味はないのではないか。
「正義の反対はまた別の正義である」ではなく「価値観はひとそれぞれ」なら、そんな当たり前のことをあえて言う意味はほとんどの場合ないよねっていうことに同意する人は多いはずだ。じゃあ大した意味のない「正義の反対はまた別の正義である」を多くの人が引用して、それだけで何か意味のあることを言ったようにふるまってしまうのは何故だろうか。それは「正義の反対はまた別の正義である」という言い回しがスマートであり、格好良く、ある種の権威性を帯びているがゆえに、実際の意味以上に「物事の真理をついた価値ある発言」だという錯覚をおこしているんじゃないだろうか。
これは格言・名言として流布するすべての言葉に言えることではあるのだけれど、格言・名言は一定の権威性を帯びている。それを引用することでその権威性に寄りかかることができ、自分の発言の理路そのものを理屈によって正当化することを怠ってしまいがちである。あるいは、その言い回しの格好よさ・スマートさを引用することで実際以上に何かを言った気になってしまって、実際の問題そのものを深堀りしなくなってしまう・思考停止してしまうという弊害があると私は考えている。
つまり私が言いたいのは「正義の反対はまた別の正義である」に限らず、議論であったり誰かを説得しようとする際に、自分の考えをちゃんと言語化せずに名言・格言を引用するのは辞めたほうがいいよね、という話である。あるいは名言・格言を引用して説得するやつは自分の意見をちゃんと言語化しない傾向にあるように感じて頻繁にムカつくという話でもある。この記事を書いた本当の理由の大半も、冒頭の記事で私が「価値観は(善悪)は相対化されないよ!」と書いているとおそらく誤読した人が「進撃の巨人を最終話まで読んだほうがいいですよ」とコメントしてきてムカついたからである。あの記事の後半って、何かを引用するだけで正当性が担保されてると考えてるやつがムカつくという内容を延々と書いてるのに、その記事への反論として自分の意見をろくに言語化もせずに進撃の巨人を引用して何かを言った気になってくるという行為、ムカつくじゃないですか。*3
それと、冒頭の記事で以下のようなことを書いていた。
まあでも「正義の反対はまた別の正義である」については、価値観は人それぞれなんて当たり前だから意味がないというだけで、別に間違ったことを言ってるわけじゃないから良いんですよ。元がゲームのセリフってことで良くも悪くも権威性はそんなにおびてないし、ゲーム上で良きこととされていることは、せいぜい製作者の倫理観の反映に過ぎないっていう反論は結構な人が説得力を感じてくれるとは思います。
これも今考えると的外れなこと言っていたなと感じる。魅力的な物語やエンタメ(パワポケ7であり進撃の巨人であり、ジョーカーでもシンゴジラでもなんでもよい)で描かれた思想や発言に対して、深く考えずにそれが真理をついた正しいものであると受容し、権威性を感じている人は少なくないんじゃないかと最近は思う。
もちろん魅力的な物語はほとんどの場合「正しさ」以上に「面白さ」を志向しているのであって、そこで描かれた思想や発言の「正しくなさ」をあてこするのは野暮というか的外れな行為ではある。でもそこに「正しさ」や権威を感じ取って引用する人がいる以上、その野暮な行為がある程度必要になってくるのは悲しいしムカつくな思う。
例えば「正義の反対はまた別の正義である」がネット上で広まった元ネタ*4はおそらくパワポケ7の黒野鉄斎というキャラのセリフ(黒野鉄斎と主人公との問答)だよって話は前にも書いたのだけれども、このセリフの全文を追っていくと「正義」という言葉をちゃんと定義できているとはいいがたい。「正義」は「善」とは違うとして「道理」と置き換えてみたり、あるいは「規範」の言いかえのように使ってみたり、妥協を禁じるものであると定義したり、あるいは正義以外の軸として「法」を持ち出してみたりと全然一貫していない。一連の台詞を見てもじゃあ「正義」ってなんなんだよ?って疑問には全然答えれておらず、終始うやむやにして終わっているように思う。正直、この一連の問答を根拠にして何かを正当化するのはかなり無理があるように感じる。
前述したとおりパワポケ7は「正しさ」以上に「面白さ」を志向しているものだろうから、こんな指摘は本当に野暮なものではある。”正義の味方”を戯画化した存在である戦隊ヒーローとの戦いを経て「正義」ってなんだ?と悩む主人公に対して、悪の科学者を自称する黒野鉄斎というキャラが「正義」や「善悪」をガンガン相対化していく一連の問答は物語として非常に面白い。面白ければいいはずだったのに、そこに余計な権威や「正しさ」を読み取って引用する人がいると、色々面倒くさいしムカつくのでやめてほしいなと思う。