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名字の収束した世界で佐藤と鈴木は争うんだろうか

現在の日本の法律だと婚姻するなら双方の名字は同じにしないといけないわけだけれども、世の中には人口の多い姓ってのがあるわけで、このまま世界が続けていけば必然的にマイナーな名字は淘汰されて行く。現在メジャーな名字だけが残っていくわけだ。

ようするに日本は佐藤や鈴木、高橋や田中のみに牛耳られていく。たぶん人口比の90%が4つの姓とかに収束した世界は個体識別に名字が使えなくなるので、現在主流な2~4文字くらいの名じゃ同姓同名が多すぎて厳しくなってくる。そうなると名前がどんどん長くなっていくか、古式ゆかしい方法、すなわち地名や関係性、容姿や職業に絡めた名乗りが主流になってくるかもしれない。

「アキヒコとヨシエの息子、湘南の佐藤太郎」とか「襟裳岬のエンジニア、赤毛の鈴木花子」みたいなやつが実用されるかもしれない。それはとても素晴らしい世界だと思いませんか。いや、思わないけど想像するだけどにこやかな気持ちにはなってしまうし、とにかくそんな世界を見てみたいというこの気持ちだけは本物であると確信している。

そんな名字が同じ人間が周囲に溢れている環境で、人は何を考えるんだろう。名字、というか、名前と自分のアイデンティティを強く結びつけて考える人間は多いだろうけど、全体の30%とか40%が同じ苗字の環境下で名字に個人としてのアイデンティティを感じるのはだいぶ難しくなる気がする。ただ、その代わりに集団としての帰属意識は生まれないだろうか。国籍や人種、性別のように、名字に対する帰属意識が生まれてもおかしくないんじゃないか。

 

大体の人は何でも間でも関連付けるのが好きである。それが何であり、特定の「何か」の区分けによって集団が存在し、そこにアイデンティティを感じるものがいるとすれば間違いなくその「何か」に付帯して別の「何か」がどんどん関連付けられていく。「田中」姓は名字が田中であるという事実にのみ定義づけられるものではあるが、そこに「田中」は○○の傾向があるといった言説が出てくるのは想像に難くない。今だって姓名判断なんてものがあるくらいである。「鈴木」は社交的・活動的であるが慎重さに欠けるとか「佐藤」は誠実で頭が良いが受け身がちであるとか、そういう話が好きな人はたくさんいる。そこに確固たる根拠は必要ない。著名な「高橋」姓のスポーツ選手が多ければ「田中」は運動能力に優れていることにされるだろうし、「佐藤」姓の学者や医者が多ければ「佐藤」は頭が良いことになる。サンプル数の少ない精度の低い統計でもセットにしてあげればそれを振り回す人は大勢いるし、思想や能力と名字に因果関係があると信じる人が少なからず現れるだろう。相関と因果を逐一判断するのはなんやかんや難しい。

アイデンティティを感じているものに対して、自分のそれが優れていると結論付けたがるのはまあよくある話である。佐藤太郎は「佐藤」が鈴木より優れていると考える。鈴木花子は自らの「鈴木”性”」を誇るはずだ。そこに待つのはお決まりの争いだ。レッテルの張り合い、統計のチェリーピッキング、程度の低い対向論だけを取り上げて一般化する、その他もろもろ。

 

ここまで考えて思い出したのがカート・ヴォネガットの『スラップスティック : または、もう孤独じゃない!』だ。

 

 

 

 

自分が一番好きな小説のひとつであるのだけれど、この本の中に「拡大家族」計画というのが出てくる。政府が国民に新しいミドルネームを発行する。ミドルネームが同じ人達はみんな親戚だよって計画だ。例えば佐藤太郎さんと鈴木花子さんには縁もゆかりもない。そこで政府が2人に「梅干し」というミドルネームを勝手に発行したとする。佐藤・梅干し・太郎と鈴木・梅干し・花子はたちまち親類縁者だ。縁もゆかりも発生するわけでそうやって孤独を無くそうというのがこの計画の趣旨である。もちろんこの作品はフィクションであるけれども、思考実験としては面白い発想だと思う。職業でも趣味でも、共通点があれば人は親しみを抱きやすいというのは事実だ。政府が「勝手に」付けるので、だれを身内にするかは誰も選べない。蛇蝎のごとく嫌っている相手だろうと勝手に家族になってしまうわけなので、当人の資質によらず孤独から逃れられてしまうというわけである。

作中でこの拡大家族計画がうまくいったのかはよくわからない。ミドルネームによって派閥を作ったり、性向について語られたり(ピーナッツ家は卑しい!)、そこそこに孤独が解消されていたりする描写はある。だが拡大家族計画が実施されてまもなく、「緑死病」という謎の疫病のパンデミックによってほとんどの人間が死に絶えてしまうので、政策もなにもあったものでは無くなってしまうからである。ちなみにこの緑死病、作中では中国発の疫病だったりするので、めちゃめちゃタイムリーな話でもある。というか、コロナと絡めてこの本の話する人がいっぱい出てくると思ってたのに、そうでもなかった悲しみを昇華すべく書いたのがこの記事である。「ここまで考えて思い出した」なんて書いたがあれは嘘ですごめんなさい。スラップスティックヴォネガット作品の中だとかなり感傷的というか、「猫のゆりかご」とか「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」なんかの突き放した残酷さみたいなのが薄くて読みやすいと思うのでぜひ読んでね。

「拡大家族」についてはヴォネガット自身思い入れのある考えだったらしいので、作中で描かれる拡大家族は中々捨てたもんじゃないように見えるのだけど、実際のところどうなんだろう。現代日本での婚姻制度がこのまま続き、名字が収束した世界はスラップスティックの世界と近似している。田中が田中同士で連帯する光景はもちろんあるだろうけれど、田中は高橋を嫌悪し迫害しないだろうか。佐藤と鈴木は争うんだろうか。そういうことを考えている。ぶっちゃけ血液型診断のB型差別程度で収まる気もする。それが良いことであるかは別にしてめちゃくちゃ見てみたい世界であるので、夫婦別姓への反対意見に賛同する気持ちが全くないとは言えない。

 

いやまあ、夫婦別姓が可能なほうが便利ではあるし、究極的には既存の婚姻制度自体が解体されるべきじゃないの?という考えなので夫婦別姓になったらいいとは思う。以下の記事とほぼ同一意見です。

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※追記

冷静になって考えると夫婦別姓になろうが創姓できない限り名字は収束していくので、将来的に佐藤と鈴木の合戦が起こるのは既定路線ということでお願いします。