おおむね何もやりたくない

twitterで書くのもどうかと思ったことを書くはず

小山田圭吾(コーネリアス)に対するバッシングと、適度な社会的制裁のラインってなんぞやという話

小山田圭吾氏が、子供時代のいじめを語る過去のインタビューによってバッシングを受けていることに関連して、その社会的制裁が過激化することに対する疑義をちょこちょこ見かける。
自分も適当な社会的制裁ってなんだよーとごちゃごちゃ考えてはいたのだけれども、ちょうど愛読してるブログで同テーマの記事が投稿されていたので読んでみた

davitrice.hatenadiary.jp


上記のデビット・ライス氏の記事についてはおおむね同意するところが多いのだけれども、記事中で引用されてる以下のツイートにひっかかりがあった。


原則的に「社会的制裁はよくない」とすべき、とまで書いているのだけど、さすがにそれはラディカルすぎるんじゃないか?というのがそのひっかかりである。

氏自身も

社会の道徳的進歩というものは多かれ少なかれ社会的制裁によって実現してきたのかもしれないし、それがなければわたしたちは現在よりもずっとひどい社会に住んでいたのかもしれない。

 と書いている通り、社会的制裁は必ずしも害のみをもたらすものでは無い。合法な範囲で行われる非倫理的行為に対する対向運動というのは、ほとんどが社会的制裁にならざるを得ないのではないだろうか。

例えば

・大企業が非倫理的な行為を行っている際、それに対する批判や不買運動

・いじめ問題を矮小化しようとする教育機関に対して、批判であったり教育委員会に働きかけることでもってその是正を求めるような行為

・差別的な言動を行う集団や著名人に対して批判することにより、その社会的イメージを減退させようとすること

等々についても社会的制裁と言えるのではないか。印象論になってしまうが、これらの行為がなければ、合法で行われる非倫理的行為は今よりも非常に容易なものとなってしまうだろう。社会的制裁が無くなった社会が今より良い社会であるかと考えると疑問符を抱く。

とはいえ、上記の記事中でもさんざん指摘されている通り、社会的制裁は不適当に・恣意的に・過剰に行われがちでその責任はだれも取らない。結果「過剰に制裁を受けた加害者」「不当な理由で制裁を受けた加害者とされた人」という新たな被害者が容易に誕生するため、これはもちろん良くない事である。いわゆるキャンセルカルチャーへの批判も同型の問題だろう。

というところで、「適説な社会的制裁」というものを仮定したとして、その”適切さ”のラインってなんぞやというのを今回の問題をベースに考えてみる。

 

今回の炎上の件で言えば、バッシング対象となっているのは以下のポイントだろう。

 

小山田圭吾氏が少年時代に行ったいじめ行為そのもの

②インタビュー記事で小山田圭吾氏が過去のいじめ行為を笑い話として語っていること

③そのような記事を載せたライター・雑誌(ロッキンオンジャパンクイックジャパン)の倫理的責任

また、上記を受けて

④このような非倫理的な行為を行った人物を要職に据えようとした五輪組組織委員会の対応

 

さらにまとめると、①「いじめ行為そのもの」と②③④「いじめ行為を軽く扱うこと」に対してバッシングが行われていると捉えることができる。

今回のような社会的制裁が特に子供の行う「いじめ行為そのもの」に対する直接的な抑止力になるとはあまり思わないが、「いじめ行為を軽く扱うこと」への社会的リスクは間違いなく上がったと認知されたように思う。

今後、「いじめ行為を軽く扱うこと」が以前と比べて困難になったことは社会的制裁の「良い」点であるだろう。*1

 

ではこの「いじめ行為を軽く扱うことの困難化」はバッシングが激化する過程のどの時点から発生し、どの時点でバッシングの有用性が失われるのか。

実際のところ、小山田氏のいじめインタビューは10年くらい前に発掘されていて、彼のファン層ではそこそこに有名な話であったし、そこそこには非難されていた。*2

それでもこの10数年間、小山田圭吾氏は順風満帆なキャリアを送ってきたわけで、そこに「いじめ行為を軽く扱うことの困難化」という抑止力は全くと言っていいほど働いていなかったように思う。五輪がらみで炎上したことによって認知者が増えて、初めて社会的制裁は有効に働き、エスカレートして過剰なものとなっていると私は考えている。

まあ、そもそも社会的制裁というのは私刑なので、コンセサスのとれた適当な社会的制裁の程度なんてものは存在しないのだけれど、どの程度が適当かの個人的な基準くらいは定められるかもしれない。

ということで今回のバッシングによって発生した社会的制裁について時期を段階分けしてみると以下のような感じになるだろうか

 

(1) 問題の存在そのものを初めて周知する行為(例えば10年前ほどにインタビュー記事を発掘した人が行った行為)

(2) (1)を受けてそれを広めたり批判する行為

(3)五輪に伴う炎上でインタビューについて認知し、それを広めたり批判する行為(初期)

-------------------------------この間のどこかで十分な社会的な認知が発生------------------------

(4)五輪に伴う炎上でインタビューについて認知し、それを広めたり批判する行為(後期)

また、上記とは別の軸で

・上記を受けて小山田圭吾氏を五輪の音楽担当から解任する行為

小山田圭吾氏の過去・未来の活動に対する制限

という社会的制裁もあるだろうが、ここでは触れないでおく。

 

この段階分けに準じると、(1)-(3)までは倫理的に良い社会的制裁、(4)は過剰であり、倫理的に悪い社会的制裁と言えるかもしれない。じゃあ(3)と(4)の間のラインは具体的にどこなんだよと問われると、正直個人の肌感覚で・・・・以上のことは思いつかないので説得力も何もない整理になってしまうのが正直なところである。

私は現時点のバッシングは(4)の段階だと思っているが、まだ(3)の段階だ!と感じているがゆえに未だにバッシングを続けている人だっているだろう。*3どこかに適当なバッシングの閾値があるのだろうけれども、それを見出すのは相当に困難なことだろうし、そうして見出した閾値がコンセサスを得られるかというのも疑問ではある。このあたりの量の問題については以下の記事がおもしろかった。

 

m-dojo.hatenadiary.com

現時点でもバッシングを続ける人に対してはあまりいい印象を抱いてないし、私自身この手のバッシングに参加することはあまりないのだけれども、「お前の態度はスマートかもしれないが、他人が泥臭くバッシングしたことによる倫理的向上にフリーライドしてるだけじゃないか」と言われたら反論に窮するところはある。

例えば今回の事例や類似事例に関して、SNSや報道における当該話題の頻出率と公共の場で行われるいじめ問題に関する不適切な発言数なんかの相関を、一連の炎上の前後でとってみたりする、なんて研究があればもう少し説得力のあるラインを引くことができるのかもしれない。とはいっても現時点では机上の空論だし現実味も薄いよなとは思う。

あと、いじめみたいな「明らかに不当であるというコンセサスがとれている」ことならともかく、冒頭のライス氏の記事で紹介されてるスティーブン・ピンカーの例のようなそもそも「バッシングの理由自体が不当である懸念が大いにある」問題については全く別の整理になるよなーとは思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:あるいは非倫理的行為を行った小山田圭吾氏や雑誌・ライターの名声が毀損され、心理的・経済的な被害を与えたことも応報感情を満たしたということで「良い」と言う人もいるかもしれないが、個人的に社会的制裁の妥当な理由とはならないと考えるためここでは触れない

*2:私は熱心ではないもののコーネリアス名義の音源を一通り追っていた程度のファンであるが、インタビューの件は当たり前に知っていたし、同じような趣味の知人も結構な人数が知っていたように記憶している

*3:そこまで考えてやってる人は正直少ないと思うけれども